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2013年2月20日 (水)

二 日本窒素肥料株式会社(1)【扇に日の丸】

【扇に日の丸】

 チッソ、という名称は、株式会社の名称としては、少し変わっている。

 もともと会社の商号を選ぶ基準は、他の会社との区別をはっきりさせることにあるから、普通どこにでもあるモノを商号にしようとはしない。

「チッソ」は、「窒素」のことであり、大気中にあまめく存在している。

 しかしそれだけに、この商号を選んだ理由の背後に、そう名のるだけの実績をもっているのだ、という自負を感じさせる。空気中の窒素を固定し、これを原料とする技術の工業化に最も早く成功したのは我社である、という誇りである。

 日本窒素肥料株式会社が戦後の五年目に、企業再建整備法により、新日本窒素肥料株式会社と名称変更して以降も、窒素肥料やカーバイト系化学製品を生産していたことに変わりはない。ところが一九六五(昭和四〇)年一月一日にチッソ株式会社と社名変更したのは、カーバイト系化学工業に終止符を打ち、石油を原料とする化学工業会社にはっきりと転進することを内外ともに明らかにすることにあった。だから、「日本窒素肥料株式会社」の如く、商号中に「窒素」を謳う必要はまったくなくなっていた。

 それでも、「チッソ」と名称を変更したのは、まさに同社の歴史への自負である。「チッソ」は、まぎれもなく、日本のカーバイト系化学会社のトップであり、空気中の窒素を原料とする化学工業の雄であった。

 日本窒素肥料株式会社は、空中窒素固定法工業化の成功によって昭和財閥と呼ばれる大企業群に成長したのであり、水俣工場といっても同社が擁する数多くの工場群のほんの一角にしかすぎないほどに巨大化した。が、現在では、この事実を知る人は少なく、社名を聞いただけでピンと来る人さえ多くない。

 しかし、旭化成工業株式会社とか積水化学工業といえば知らない人はまずいない。

 旭化成は、日本窒素肥料の延岡工場が、戦後、占領軍の財閥解体命令で本体から切り離されて独立したものだ。旭化成は、いまやチッソをはるかに上まわる、日本化学工業界のトップランナーに成長している。

 積水化学は、やはり戦後、海外から引揚げてきた日本窒素肥料系会社の若手社員たちが、引揚げ者の生活救済のためにチッソ製品の販売会社として始めた積水産業株式会社がその出発点であり、その後プラスチック成型事業を中心に発展したものである。積水という言葉は、日本窒素系企業が築造し続けたダムに、積もる水、に由来している。

 他に、日本窒素肥料の流れをくむ、名が知られた会社としては、野口のもとで北部朝鮮での電源開発を担当した久保田豊が戦後興した日本工営株式会社、朝鮮鉱業開発株式会社から出発した株式会社ニッチツ、それに運送会社のセンコー株式会社などがある。

 この運送会社センコーの社名は、日本窒素肥料系企業の由緒ある歴史をとどめているといってよいだろう。

 センコーの旧社名は扇興運輸であり、日本窒素肥料の社のマークは、扇に日の丸であったからだ。

 白地に日の丸を描いた、開かれた扇は、日本窒素肥料の製造するあらゆる製品に印された商標であり、日本窒素肥料という会社が、日本の化学工業界を領導せんとする意気込みを表すシンボルであった。

 日本窒素肥料、つまりチッソの歴史には、日の丸に象徴される日本国家との一体感が深く刻みこまれている。

 明治以降、この日本という国は、一〇年に一回の割合で戦争を破裂させながら、西欧に追いつけ、追い越せとしゃにむに第二次産業を育ててきた。西欧なみの工業化の実現は、国家、企業家、そして国民全体の強迫観念であった。

 国家との一体感をもって企業拡大の野望に挺身した企業家は数多いが、チッソの創業者野口遵は、大正から昭和にかけての、その一典型であった。

二 日本窒素肥料株式会社(2)【創業者 野口遵】

【創業者・野口遵】

 

遵は、したがう、と読むのが本当であるが、子供の頃から、じゅん、と呼ばれている。

 野口遵は、一八七三(明治六)年に生まれ、第二次世界大戦終結の一年前、一九四四(昭和一九)年に死亡している。

 野口の墓は、東京の大田区、池上本門寺の境内にあり、五重の塔の北東に位置している。日蓮宗中興の祖といわれれる日輝上人が、父の叔父にあたる縁があってのことであろう。野口が隆盛を誇っていた一九三八年の建立になるもので、墓域はぬきん出て堂々としている。

 野口は、金沢で生まれている。

 父は加賀藩士で、字は斧吉、諱は之布という。生後間もなく、母の幸に抱かれて上京し、前田家の長屋で少年時代をおくっている。

 この長屋があった場所は、文京区が本郷区と呼ばれていた頃(明治一一年から昭和二二年)の、本郷弓町であったことはまず間違いない。つまり、前田家の長屋といっても、本郷赤門の奥にあった長屋ではなく、今の地下鉄本郷三丁目駅の西裏手にある、文京区立第二中学校のあたりであった。

 父である之布は、勤王の志士というべきだろう。

 加賀藩というのは、江戸幕府から取り潰されることを怖れつづけるあまり、墨守派がきわめて強かった藩であるから、勤王派といっても、長州藩のような華やかさはない。

 幕末、父之布は昌平黌に学んでおり、共に机を並べた仲間に長州の高杉晋作がいる。

 加賀に帰ってから、漢学者として藩の子弟の教育にたずさわる一方、正義党と呼ばれた勤王派に加わっている。

 蛤御門の変で、長州兵は結局は敗走することになるが、このとき佐幕に決した藩の命によって禁獄終身に処せられ、三年七ケ月間、座敷牢に閉じ込められている。

 大赦令によって出獄した時はすでに明治に入っていた。

 野口遵に、事業を興す元手となる遺産が父から遺されたわけではない。徒手空拳といえばきこえはよいが、元々の資金をどのように調達したのか、少々いかがわしいところがある。

 最初に設立した「曽木電気」からして、資本金は二〇万円で、自己の負担金は半分の一〇万円であったが、これをどのように調達したのか、どうも判然としない。

 明治四〇年当時の一〇万円といえば、どうみても、現在の五、六億円にあたる。

 据え付けた発電機はシーメンスから買ってはいるが、この支払も済ませてはいないらしい。

 野口は、明治二九年に帝大の電気を卒業している。当時の常識からみれば、官庁に入るか、大企業に勤めて、出世コースを歩みそうなのに、今の江ノ島電鉄の運転手をやったり、小さな水力発電の工事に従ったり、シーメンスの東京支店に雇われたり、ほとんど一〇年間ブラブラしていたといってよい。

 その間にも、カーバイトを原料にして何かを造ろうと研究を継続していたことは確かであるから、自分でカーバイトを使った事業を興そうと機会を狙っていたのだと思われる。

 若い頃の写真が残っている。

 なかなかのハンサムだ。色白で、目が大きく、まるで歌舞伎役者のようだ。

 終生通して、つきあった女の数は多く、現代では信じられないほどだ。

 酒好きだが、陽気な酒だったらしい。

 曽木電気のそもそもの発足が、新橋で飲んでいた時に、偶然知りあった鹿児島県の資産家と話がはずみ、これがきっかけで、互に折半で出資しようと話が始まったという。

 飲むのはもっぱらビールと決まっていたというから、飲み方にも用心していたのだろう。

 私の妻が、娘を出産してから暫くのあいだ、年配のお手伝いさんを雇ったことがある。このご婦人は、かつて京城(現ソウル)で料亭に勤めたことがあり、芸者として野口の宴席にも侍ったことがあった。このお手伝いさんの話では、野口の遊び振りは、かなり豪勢なもので、楽しい席であったという。

二 日本窒素肥料株式会社(3)【私財を寄附】

【私財を寄附】

 野口遵は、曽木電気と日本カーバイト商会を合併して、日本窒素肥料株式会社を水俣に創立して以降、一代で日窒コンツェルンを造りあげている。

 日窒コンツェルンは、日本式アルミニウムの製造で知られる森矗昶の率いた森コンツェルン、電解ソーダ工業を中心とする日曹コンツェルン、それに満州重工業で知られる鮎川義介の日産コンツェルンとともに昭和財閥とも呼ばれる。いずれも、三井、三菱、住友など明治から大をなした財閥と違い、昭和になってから巨大化した企業群だからだ。

 企業支配の仕方もずいぶん違う。野口の日本窒素グループ全体に対する所有株式は一〇パーセント程度にすぎなかったし、自分の息子や一族に企業支配権を譲り継がせようとした形跡はまったくない。

 長男の寛が日本窒素の重役になってはいるが、それは野口が病いに倒れてからのことであるし、その長男が社長になっているわけでもなく、子孫が支配権を握っているわけでもない。

 野口は、死の病いに倒れた一九四〇年、--この年は皇国紀元二千六百年の記念式典が挙行された年であるが--私財のほとんどを寄附している。

 三、〇〇〇万円の寄附金は、後に、二、五〇〇万円が財団法人野口研究所の設立にあてられ、五〇〇万円が、財団法人朝鮮教育財団の設立にあてられている。

 東京都小金井市にある小金井カントリークラブから発する石神井川は、王子をぬけて隅田川まで流れているが、その途中板橋区加賀で金沢橋の下をくぐっている。

 金沢橋の西側一帯は、一六五七(明暦三)年の振袖火事のあと移転してきた加賀藩の下屋敷跡であって、板橋区内では数少なくなった緑の濃い、静かな佇いをのこしている。その一角に今も野口研究所がある。

 財団法人朝鮮教育財団は、当初は朝鮮総督府内に設立され、今の東京都新宿区西新宿一丁目に土地を取得していた。戦後は、財団法人朝鮮奨学会となり、新宿駅西口にあるその土地に「新宿ビルディング」を所有し、最上階に事務所を設け、現在も、在日韓国、朝鮮人学生に奨学金を与える活動を続けている。

 ここに、朝鮮に人生を賭けた明治の野口の夢の跡をみることができる。

                           つづく

二 日本窒素肥料株式会社(4)【成功の原因】

【成功の原因】

 事業家野口の凄さは、変成硫安を捨て、合成硫安に切り換えていったところにある。

 どちらも、窒素系肥料の王者である硫安(硫酸アンモニウム)で、化学的には同じ物だが、製造方法がまるで違う。

 変成硫安は、カーバイト(炭化カルシウム)を原料として石灰窒素をつくり、これを水蒸気で分解して得たアンモニアに硫酸を作用させてつくる。

 合成硫安は、アンモニアを水素と窒素とから、文字通り合成してしまう。要はアンモニアのつくり方の違いだ。

 変成硫安は、日本窒素肥料の主力商品であった。特に第一次世界大戦の際には日本窒素肥料に膨大な利益をもたらしている。

 大戦景気で肥料に対する需要が拡大する。他方、大戦によって輸入硫安が激減したのだから、国内産硫安に対する需要は当然とびあがる。

 このおかげで、日本窒素肥料は一九二〇(大正九)年の上半期の決算では、一〇割四分という配当を実行している。この当時、大戦景気でボロ儲けした戦争成金は鈴木商店(後に結局は倒産)、久原鉱業(後の日立製作所、日産系企業の母体)など数多いが、それにしても一〇割をこえる配当とは、尋常な利益ではない。

 ところが野口は、この変成硫安を捨ててしまう。

 翌年の一九二一年、開発されたばかりで、まだ試験段階にあったカザレー式のアンモニア合成技術を買い取り、宮崎県延岡に工場を新設し、アンモニア合成法硫安の工場生産を開始する。水俣工場でも、全面的に合成硫安に切り換えられる。

 合成硫安はコストが安い。

 固定される窒素あたりの消費電力が大幅に少ないのだ。

 野口自身によれば、石灰窒素法硫安を蒸気船にたとえれば、アンモニア合成法硫安は、航空船にたとえることができる、というのだ。(「工業上より見たる空中窒素固定法」電気評論第一巻九号)。

 日本窒素肥料と熾烈な競争関係にあったのは、三井系の、電気化学工業株式会社であるが、同社が変成硫安に固執し続けたことを考えれば、鮮やかな転進である。

 これに加えて、日本窒素肥料にますます体力を蓄えさせたのが、北部朝鮮における大電源開発である。低廉な電力を得て、大幅にコストはダウンする。

 日本窒素肥料と同様、電解法合成硫安を製造した会社として昭和肥料(後の昭和電工)があるが、これら同業他社がまねができないほどの低いコストで合成硫安を製造することができるようになる。

 この、アンモニア合成技術の工業化の成功によって、日本窒素肥料は、たんなる肥料会社の水準を抜け出すことになる。アンモニアは肥料の原料でもあるが、化学工業の重要基本資材であるからだ。製品は多角化し、化学工業会社へと体質変化を遂げることに成功する。

                                                       つづく

二 日本窒素肥料株式会社(5)【水俣病発生の遠因】

【水俣病発生の遠因】

 ところが、この成功は、水俣病発生の原因と直接結びつく遠因になっている。

 野口がカザレー式合成アンモニアの工業化に成功した後、安価な電力を求めて朝鮮水電株式会社を設立したのは、一九二六(大正一五)年のことである。

 その同じ年に、水俣工場も変成硫安から、延岡工場の三倍もの製造能力をもつ、合成硫安工場に転換した。

 問題は、切り捨てられた変成硫安の原料であったカーバイトだ。

 水俣工場では、用なしになったカーバイトを、有機化学工業の出発点に役立てようとする研究が時をおかず開始される。この研究の成果として、カーバイトからアセトアルデヒドを経て酢酸を合成する工程が橋本彦七の手によって完成していったのである。このアセトアルデヒドを合成する工程が水俣病発生の原因物質をつくった。

 低コスト電力を求めて植民地朝鮮へ進出することによって、一度は捨ててしまったカーバイトを、有機化学の原料に“廃物利用”しようとした、技術開発努力が、水俣病の遠因となったのである。

 失敗は成功の母であるといわれる。個人のレベルでは妥当する教訓ではあろう。しかし、歴史は、成功が失敗の原因であった事例を数多く示している。

 森コンツェルンが、後に新潟水俣病を起こした昭和電工の母体であることを考え併せると、昭和の時代に急成長した企業には、重大な欠陥をかかえる企業が多い、といえそうである。

 大正から昭和の時代に急成長を遂げた企業は、多かれ少なかれ、旧財閥を敵視していた軍部の協力援助を得て勢力を拡大しているから、軍事的色彩が濃く、旧財閥以上に植民地で発展した企業が多いから、植民地支配者としての体質が強い、といった理由からだ。

 植民地であった北部朝鮮の地で日窒コンツェルンが大発展を遂げたことは事実である。

 しかし、植民地支配者的な体質が、チッソの水俣病や昭和電工の新潟水俣病の遠因であるとする見方は、政治的批判と歴史的事実とを混同するものだろう。植民地--悪--水俣病という単線の図式が成立するはずもない。

                                           つづく

二 日本窒素肥料株式会社(6)【後進と先進】

【後進と先進】

 日本窒素肥料は、合成アンモニアを出発点に硝酸を合成し、ニトログリセリン、火薬を製造した。別にベンベルグ絹糸の生産へと、合成化学工業の枝筋を次々と繁茂させていった。

 製品は多様化したが、収益という点から見れば、やはり合成硫安が稼ぎ頭であった。

 化学企業に転換したことは事実であるが、この意味では一貫して肥料会社に本体があった。

 アンモニアはNH3だ。

 水素は、水の電気分解でつくる。窒素は、空気を液化し、気化温度の差を利用して分離する。つまり原料は、水と空気だ。

 電気も、水力発電であるから、水に依存したものだ。

 合成される硫安も、農業用肥料であるから、結局は、大地に還っていく。

 こうしてみると、日本窒素肥料という会社は、入口から出口まで、空気と水と土、つまり、大自然に、たよって生きていたわけだ。

 まるで、農業に似ている。

 明治維新以降、あらゆる産業が生産性の向上めざして大躍進を遂げた、と言われているけれども、生産性の向上がなかなか進んでこなかった分野がある。それは農業だ。

 明治政府によって、さまざまな法制度が導入されるが、根本的な法改革は、地租改正であった。

 これが大改革である理由は、私人に土地所有権を認めたところにある。

 土地は、もともと地球の表面の一部であって、誰の“モノ”でもないにもかかわらず--より正確には、であるが故に--土地所有権を私人に帰属させる法制度は、資本主義的法制度の基礎中の基礎である。これを出発点にして日本の資本主義的生産方式が発展の緒についた。

 しかし、このことは、土地が金融制度を媒介にして資本に転化することが可能な地域、例えば都市及びその周辺部については妥当するが、農業地帯については妥当しない。むしろ逆に、土地私有制が農業発展の足かせになってしまった。私有制のため、農地の大規模統合化が進展しなかったからだ。

 一つには政府が、農地私有制を“口実”にして、農地の大規模化を促進させる政策をとろうとしなかったからでもある。工場生産方式の発達のためには、工場に向け限りなく労働力を供給し続けざるをえない貧困な農村地域の存続を必要としていたことがあった。

 農民に与えられた土地私有権は、貧困を精神的に補完する便利な玩具であった。

 第二に、農民の側でも、土地所有権を失なうことを恐れて、農地の大規模化に抵抗した。

 日本においては、イギリスにおけるエンクロージャーのような農地囲い込みはまったく実現せず、小規模な農地が個々人の農民に帰属したまま、細分化された農業が現在まで続いてしまった。

 技術革新がむつかしい分野では、収益をあげようとすれば、規模のメリットを追求するしか道はない。農業はその典型例だ。農業生産性の向上には、大規模化以外に生産性向上を実現することは困難である。

 小規模な農地でありながら、生産性を向上させようとしても、方法はきわめて限定される。最も安易な方法は、肥料の大量投入である。

 小作制度がこの傾向を更に促進させた。小作人が耕作できる土地は自作農民よりさらに小規模であり、耕作面積を拡大する方法はまったくない。土地からあがる収穫物の五割以上を地主に納めなければならない以上、自己の取り分を増やそうとすれば、限られた土地の生産性を向上させる方法しかない。その方法といっても、肥料を投入し続ける以外にはない。

 このため日本の明治以降の農業は、肥料投下型農業であったといってよい。

 増大する肥料への需要は、大量廉価に生産される化学肥料の供給を絶対的に必要としたのである。なかでも最も多用された化学肥料が、硫安であった。日本窒素肥料は国内硫安生産高の四〇%内外を占め続けていたのである(矢作正「日本窒素肥料(株)に関する研究」浦和論叢第一〇号)。

 日本窒素肥料株式会社は、化学肥料会社としても、化学工業会社としても、企業規模だけでなく、技術の高さにおいても、日本の化学会社のトップであったことは間違いないところである。しかし、その先進性の高みは、産業の中で最も遅れた、小規模零細農業の貧しさによって支えられていたのである。

                                    つづく

二 日本窒素肥料株式会社(7) 【朝鮮興南工場】

【朝鮮興南工場】

 日本窒素肥料の傘下企業は四八社にも達した。

 これを株式の所有関係という視点からみると五つの企業グループに系列化できるという。朝鮮窒素肥料、旭ベンベルグ絹糸、長津江水電、吉林人造石油、日窒証券をそれぞれ中心とする企業グループである(大塩武「日窒コンツェルンの研究」による)。

 朝鮮窒素肥料の系列下には、朝鮮窒素火薬、朝鮮人造石油、日窒宝石など、化学工業特有の芋蔓式に発展する化学物質を製造する企業が連なっている。

 長津江水電の傘下には、鴨緑江水力発電、朝鮮送電など電力企業と、端豊鉄道、鴨北鉄道などの鉄道と運輸関係企業群が所属している。

 旭ベンベルグ絹糸の下には、宮崎・延岡にある企業だけであり、地域性がある。

 吉林人造石油の傘下企業としては、石灰液化事業の原料を供給する舒蘭炭鉱、この運送を担当する吉林鉄道と吉林運輸がある。

 日窒証券のもとには、東洋水銀鉱業、日窒硫黄鉱業などの鉱山会社から東洋火薬とか日之出醤油なども含まれ、雑多である。

 四八社すべてが右の五つのグループに系列化されているわけではなく、ほかに、日本窒素肥料の直系企業として、日之出商会とか日扇商事という名前の販売会社もある。また塩野義商店との共同出資になる日窒塩野義製薬とか、三〇パーセント弱の株式しか保有していないが自動車の東洋工業なども日窒コンツェルンにふくまれている。

 吉林は満州(現中国東北部)の地名であり、長津江は鴨緑江の支流であって朝鮮半島にあるから、日窒コンツェルン傘下の企業は、ほとんど外地にあったことになる。

「日本窒素肥料事業大観」という本がある。

 一九三七(昭和一二)年に日本窒素肥料が創立三〇周年を記念して自社製作したもので、本といっても、表紙の厚さだけでも五ミリほどもあり、片手では持てないほど重い。装丁の荘重さが栄華を伝えている。

 コンツェルン形成途上の出版であるから、戦前のチッソの全貌を知ることはできないが、朝鮮半島北部に建設した水力発電施設や工場の写真や資料が豊富で、その概要を知るには便利だ。

 北部朝鮮の地形は、半島の東よりに山脈が南北に走っており、山脈の東側は急斜面をつくって日本海に落ちこんでいるが、山脈の西側は緩やかで高原地帯になっている。

 白頭山系に源を発する河川は、いったんは北流し、半島と満州との国境を西に流れる鴨緑江に合流している。

 水力発電は、この地形を利用して、北流する河水を堰堤でせき止めて貯水し、導水路を建設して山脈の東側に導き、約一、〇〇〇メートルの高落差を一気に落として発電する仕組みである。

 川の流れを変えてしまうのであるから、工事は大がかりで、赴戦江、長津江には浜名湖ほどの大きさの人造湖がつくられ、鉄道が敷設され、水が日本海側に落ち込む途中にいくつもの発電所が建設され、送電線ははりめぐらされる。

 生まれた電力は、一部は平壌(現ピョンヤン)、京城に送電され、大部分は興南工場に供給されている。

                                                          つづく

二 日本窒素肥料株式会社(8)【朝鮮興南工場2】

興南工場こそ、チッソの戦前における主力工場であった。

 数千をかぞえる水の電気分解槽の列、アンモニア合成工場、硫安肥料工場。年間二〇〇万トンの荷役処理能力をもつ興南港湾施設。山一つ隔てて、苛性ソーダ、石灰窒素を製造する本宮工場、その近くに火薬工場もある。

 これら三つの工場群と従業員社宅をあわせた敷地の広さは、約五百数十万坪というから、地方都市ほどの面積があったことになる。

 従業員の数は、日本人二万人をふくめ、四万五、〇〇〇人ほどに達した。

 水俣工場とは較べようもないほど大規模である。

「事業大観」が出版された時点以降も、日本窒素肥料は虚川江、鴨緑江本流に次々と電源開始を押し進めている。

 鴨緑江下流に造られた水豊ダムの名はよく知られている。

 この電源開発総体の規模は、アメリカのTVAに匹敵する。

 発電所が建設されるたびに、鉱業所や工場が満州との国境ぞいに開かれ、カーバイト、合成ゴムを製造し、軍部に協力して人造石油やロケット燃料も製造している。

 四二(昭和一七)年には、日本窒素肥料は、製造会社としての使用総資本で、三菱重工業、日本製鉄に次ぐ、第三位の規模にまで達している。

 三井、三菱や住友、安田など旧財閥系でもない野口遵が、ここまで事業を発展させるには、よほどの資金的基盤を必要とする。

 日本窒素肥料を設立して以降、朝鮮半島における赴戦江の電源開発のころまでは、三菱による支援をうけていたことは間違いない。

 二番目にとりかかった長津江の開発では、水利権を握っていた三菱と衝突して、縁を切り、朝鮮総督宇垣一成の支援を取りつけて水利権を獲取し、金融を、三菱から朝鮮銀行、日本興業銀行などに切り換えていった、と一般には言われている。しかし、三菱との縁が切れたわけではないらしい。大塩武の「日窒コンツェルンの研究」九三頁以下によると、長津江水利権獲得をめぐって日本窒素と三菱とが決定的対立に至ったことは事実であるが、その理由は、三菱が、不況の時に開発はすべきではない、時節を待つべきだとするのに対して、野口は電気さえ増えれば不況の時でも勘定は合うからやるんだ、という開発時期をめぐっての衝突であった。その後も三菱との金融関係は依然として継続しているし、三菱側の役員も総退陣したわけでもなかった。

 しかし、その後は、朝鮮銀行、日本興業銀行と次第につながりを深めていったのも事実である。日本興業銀行との、戦後一貫して続いた深い関係が、この時期に始まっている。

 三菱の反対に抗して、結局野口は、長津江電源開発をやり抜くことになる。

 このエピソードは、野口の人生をよく物語っている。

 北部朝鮮は、日露戦争以降、ロシアとの宿命的な不安をかかえる地雷原のような地域である。

 この地に、渾身の力をふるって電源開発に賭ける野口にとっては、個人の命運は企業の命運に重なり、国家の命運とも重なり合っていた。

 典型的な明治の人であった。

                                                    つづく

二 日本窒素肥料株式会社(9)【敗戦と引き揚げ】

【敗戦と引揚げ】

 

興南工場は、アジア全体の中でも最大規模の電気化学工場であった。

 

第二次世界大戦中は、日本軍の重要な軍需工場であったから、あれほどまでに日本の工場という工場を空爆したアメリカ軍としては、いの一番に爆撃しそうなものである。しかし、戦争末期になっても爆撃されず、興南工場はまったく無傷のまま敗戦まで残った。

 

ソ連軍が北部朝鮮に侵入した。戦闘力を失なっていた日本軍は、日窒幹部に興南工場の破壊を命じる。特に、NZと呼ばれたロケット燃料の製造工程がソ連に知られることを恐れたからだ。しかし、日本窒素肥料の専務白石宗城(吉田茂の甥)は、軍がどうしても工場を破壊するというなら軍でやれ、と破壊命令を拒否し、職員に生産続行を訓示した。

「この工場の生産物は平和産業として朝鮮にとっても必要かつ重要なものであるので、必ず生産を許されるにちがいない」という自信があり、少なくとも工場は賠償の対象にはなり得るはずだという見通しによるものであった(鎌田正二「北鮮の日本人苦難記--日窒興南工場の最後--」)。

 

生産は続行されたが結局朝鮮人労働者に引渡し、日本人社宅からも追い出された。

 

その後も、朝鮮側の要請により日本人技術者が工場を運転するのであるが、日本人は次第に帰国を選ぶ。

 

このようにいったんは、第二次世界大戦直後の混乱を生きのびた興南工場であったが、朝鮮戦争が始まるとすぐ、アメリカ空軍B29の四波にわたる爆撃で、港湾施設を除く工場は徹底的に破壊された。南下する中国人民義勇軍に追われたアメリカ第一海兵師団が興南港から撤退した際、この港湾施設もアメリカ軍によって爆破されてしまったのだ。

 

その後、時期がいつのことか定かではないが、ビニロン工場が新設され、チッソから塩化ビニール重合プラントの技術輸出がなされたことなどはわかってはいる。が、その詳細を知ることはできない。

 

敗戦により、日本は一切の植民地を失ない、日本窒素肥料は、朝鮮、満州、台湾、海南島など海外における一切の資産を失なった。

 

国内にあった延岡工場も水俣工場もアメリカ軍の空爆で破壊された。特に、軍の指定工場であった水俣工場への空襲はなん回も繰り返され、屋根を残した建物が一つもなくなってしまうまで破壊された。

 

その上、戦後の財閥解体によって延岡工場(日窒化学工業)は日本窒素肥料から切り離され、旭化成工業として独立していった。

 

輝ける日窒コンツェルンの栄光を担った日本窒素肥料には、結局、破壊し尽くされた水俣工場と、出力合計わずか七万キロワット程度の十一ケ所の小規模な水力発電所が残されただけであった。

 

そこへ、海外から食うや食わずの引揚げ者たちが続々と戻ってきた。興南からだけでも、約三万人の日本人が、約三年をかけて次々と引揚げてきた。興南工場の運転のため朝鮮側に帰国を引き留められた技術者たちも、ほとんどが無事に帰国している。

 

水俣工場は、瓦礫であったが、技術者たちが戻ってきたのだ。

                     つづく

2010年12月 6日 (月)

二 日本窒素肥料株式会社(9) 【敗戦と引揚げ】

【敗戦と引揚げ】

 

興南工場は、アジア全体の中でも最大規模の電気化学工場であった。

 

第二次世界大戦中は、日本軍の重要な軍需工場であったから、あれほどまでに日本の工場という工場を空爆したアメリカ軍としては、いの一番に爆撃しそうなものである。しかし、戦争末期になっても爆撃されず、興南工場はまったく無傷のまま敗戦まで残った。

 

ソ連軍が北部朝鮮に侵入した。戦闘力を失なっていた日本軍は、日窒幹部に興南工場の破壊を命じる。特に、NZと呼ばれたロケット燃料の製造工程がソ連に知られることを恐れたからだ。しかし、日本窒素肥料の専務白石宗城(吉田茂の甥)は、軍がどうしても工場を破壊するというなら軍でやれ、と破壊命令を拒否し、職員に生産続行を訓示した。

「この工場の生産物は平和産業として朝鮮にとっても必要かつ重要なものであるので、必ず生産を許されるにちがいない」という自信があり、少なくとも工場は賠償の対象にはなり得るはずだという見通しによるものであった(鎌田正二「北鮮の日本人苦難記--日窒興南工場の最後--」)。

 

生産は続行されたが結局朝鮮人労働者に引渡し、日本人社宅からも追い出された。

 

その後も、朝鮮側の要請により日本人技術者が工場を運転するのであるが、日本人は次第に帰国を選ぶ。

 

このようにいったんは、第二次世界大戦直後の混乱を生きのびた興南工場であったが、朝鮮戦争が始まるとすぐ、アメリカ空軍B29の四波にわたる爆撃で、港湾施設を除く工場は徹底的に破壊された。南下する中国人民義勇軍に追われたアメリカ第一海兵師団が興南港から撤退した際、この港湾施設もアメリカ軍によって爆破されてしまったのだ。

 

その後、時期がいつのことか定かではないが、ビニロン工場が新設され、チッソから塩化ビニール重合プラントの技術輸出がなされたことなどはわかってはいる。が、その詳細を知ることはできない。

 

敗戦により、日本は一切の植民地を失ない、日本窒素肥料は、朝鮮、満州、台湾、海南島など海外における一切の資産を失なった。

 

国内にあった延岡工場も水俣工場もアメリカ軍の空爆で破壊された。特に、軍の指定工場であった水俣工場への空襲はなん回も繰り返され、屋根を残した建物が一つもなくなってしまうまで破壊された。

 

その上、戦後の財閥解体によって延岡工場(日窒化学工業)は日本窒素肥料から切り離され、旭化成工業として独立していった。

 

輝ける日窒コンツェルンの栄光を担った日本窒素肥料には、結局、破壊し尽くされた水俣工場と、出力合計わずか七万キロワット程度の十一ケ所の小規模な水力発電所が残されただけであった。

 

そこへ、海外から食うや食わずの引揚げ者たちが続々と戻ってきた。興南からだけでも、約三万人の日本人が、約三年をかけて次々と引揚げてきた。興南工場の運転のため朝鮮側に帰国を引き留められた技術者たちも、ほとんどが無事に帰国している。

 

水俣工場は、瓦礫であったが、技術者たちが戻ってきたのだ。

                     つづく

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